事業価値と株式価値は別のもの
M&Aの価格の話で混乱しやすいのがここです。二つの数字があります。
事業価値:事業そのものが生み出す価値
株式価値= 事業価値 - 純有利子負債
社長が実際に受け取るのは株式価値のほうです。「事業として◯◯の価値がある」と言われても、借入がその分あれば、手元に入る額は小さくなります。
純有利子負債とは
純有利子負債 = 有利子負債 - 現預金
借入があっても、同額の現金があれば実質的な負担はゼロ、という考え方です。だから「純」が付きます。
有利子負債に含まれるもの
- 金融機関からの長期・短期借入金
- 社債
- ファイナンスリースの残債
- 割賦未払金
- 役員・株主からの借入金
運送業ではリース残債の扱いが重要です。決算書に負債として載っていなくても、実質的な借入として扱われます。リース残債が価格に与える影響で詳しく整理しています。
現預金の扱いで注意すること
すべての現預金が差し引けるわけではありません。買い手は事業を回すのに必要な現金を除いて考えます。
- 給与・燃料代の支払いに必要な運転資金
- 拘束預金(借入の担保になっている定期預金など)
これらは「余剰現金」とはみなされにくいため、期待していたほど差し引けないことがあります。
役員借入金はどう扱われるか
社長が会社に貸しているお金です。中小の運送会社では非常に多く見られます。
形式上は負債なので、そのままなら純有利子負債に含まれ、株式価値を押し下げます。ただし実務では次のように処理されます。
- クロージング前に返済する:会社の資金で返す。ただし資金余力が必要
- 債権放棄する:会社の利益になるため、税務上の影響を確認する必要があります
- そのまま引き継ぐ:買い手が返済を継続する。価格から控除される
どの形をとるにせよ、社長が最終的に手にする総額で比較してください。税務上の扱いが変わるため、税理士への確認が必要です。
※ 本記事は一般的な考え方を整理したものです。税務の取扱いは、法令の改正や個別の事情によって異なります。実際の判断にあたっては、必ず税理士等の専門家にご確認ください。
逆に、社長への貸付がある場合
会社が社長個人に貸しているケースです。これは資産として計上されていますが、買い手は回収できない資産とみなすのが通常です。
クロージングまでに精算するのが原則です。放置すると、資産から除外されて純資産が減るうえ、公私混同の証拠としても見られます。公私混同の解消が最優先である理由をご覧ください。
借入が多い会社はどうなるか
計算上、株式価値がゼロあるいはマイナスになることがあります。その場合でも、次の選択肢があります。
- 形式的な価格で譲渡する:金額より、事業と雇用の継続、個人保証からの解放が目的になります
- 買い手が借入を引き継ぐ:買い手の信用力で借り換えられれば、金利負担が下がることもあります
- 不動産など資産の価値が上回る:時価純資産で見ると価値が残るケース
「借入があるから売れない」ではなく、何を目的に譲渡するかで判断が変わります。赤字の運送会社でも売却できるかもご覧ください。
個人保証は別の論点
借入が引き継がれても、社長個人の保証は自動では外れません。ここは価格とは切り離して、必ず交渉してください。経営者保証は外せるかで整理しています。
金融機関への説明
M&Aを進める際、取引金融機関への説明のタイミングは重要です。早すぎると情報が広がり、遅すぎると借入の継続や借り換えの調整が間に合いません。仲介・アドバイザーと相談して時期を決めてください。金融機関への説明をご覧ください。
売却前に整理できること
- 役員借入・役員貸付を精算する
- リース残債を一覧化する(台数・残債・満了時期)
- 借入一覧を作る(残高・金利・返済期日・担保・保証人)
- 使っていない資産を売却し、借入返済に充てる
なぜ二つの数字が混同されるのか
事業価値と株式価値の区別は、実務では最初につまずくところです。相談の場で提示された金額が、どちらの数字なのかを取り違えると、期待と結果が大きくずれます。
混同が起きるのは、日常の会話で「会社の価値」という言葉が両方を指して使われるからです。算定の結果として先に出てくるのは事業価値なので、その数字が独り歩きしやすくなります。
だから、金額を聞いたときには必ず確認してください。それは借入を差し引く前の数字か、後の数字か。差し引く場合、何をいくら差し引くのか。ここが分からないまま話を進めると、後で条件が変わったように感じます。
そして、株式価値が出たとしても、そこから税と手数料が引かれます。最終的に手元に残る額は、さらに小さくなります。比べるべきは、この手取りです。
差し引かれるものを自分で洗う
有利子負債に含まれるものを挙げましたが、自社で洗い出すときの手順を補足します。
まず、決算書の負債の部を上から見ていきます。借入金は明らかですが、それ以外にも利息が発生している項目がないかを確認してください。割賦で購入した設備、社債、そして役員や株主からの借入。
次に、決算書に載っていないものを探します。貸借対照表に計上されていないリース契約が代表例です。毎月の支払いを一覧にして、それぞれが何の契約かを確かめると、忘れていた契約が出てきます。
そして、負債とは呼ばれないが実質的に差し引かれるものを加えます。退職金の積み立て不足、未払いの残業代の見込み、係争中の案件。これらも同じように扱われます。
この洗い出しを自分でやっておくと、提示された金額の理由が理解できます。想定より低かったときに、どこで削られたのかが分かるということです。
現預金が全部は引けない理由
借入から現預金を差し引くという考え方は分かりやすいのですが、実際には全額が引けないことが多くなります。
買い手が見ているのは、事業を回すのに必要な現金がいくらかです。給与の支払い、燃料代、リース料、傭車費。運送業では、荷主からの入金より先に支払いが来る構造なので、手元に一定の資金が要ります。
その必要額を超える部分だけが、余剰の現金として扱われます。だから、手元に多くあるように見えても、期待したほど差し引けないことになります。
担保に入っている定期預金も同じです。自由に使えない資金は、余剰とはみなされません。
準備としては、月ごとの資金の動きを把握しておいてください。いくらあれば回るのかが説明できれば、余剰の額についての議論も具体的になります。
役員借入をどう整理するか
社長が会社に貸している資金は、中小の運送会社では非常によく見られます。運転資金が足りないときに個人の資金を入れ、そのまま残っているという形です。
形式上は会社の負債なので、そのままにすると株式の価値を押し下げます。ただし、社長からすれば返してもらうべき資金でもあります。つまり、株式の対価が減るかわりに、借入の返済として受け取るという関係になります。
どの形を選ぶかで、税の扱いと手取りが変わります。会社の資金で返済する場合、資金の余力が要ります。放棄する場合は会社側の利益になるので、税務の影響を確認する必要があります。買い手がそのまま引き継ぐ場合は、価格から控除されます。
だから、金額の大小より、最終的に社長が手にする総額で比べてください。この試算は、条件の交渉に入る前に手元にあるべきものです。
そして、長年放置されている場合、金額が正確に分からなくなっていることがあります。いつ、いくら入れたのか。記録をたどって確定させるところから始めてください。
会社から社長への貸付は先に精算する
逆に、会社が社長個人に貸している場合は、扱いがはっきりしています。買い手は回収できるかどうか分からない資産として扱うため、価値のないものとみなされるのが通常です。
資産から除外されれば、その分だけ純資産が減ります。加えて、公私が混ざっている証拠としても見られるので、他の項目の説明にも影響します。
整理の方法は、返済する、退職金と相殺する、保有している資産を会社に譲渡して充てる、といったものです。どれを選ぶかで税の扱いが変わるので、税理士と検討してください。
金額が大きい場合、一度には片づきません。数年かけて減らしていく計画を立て、実際に減っていることを示せる状態にしておくのが現実的です。減らしている途中であっても、放置しているのとは印象がまったく違います。
借入が多くても道は閉じない
計算上、株式の価値がゼロや負の数になることがあります。ただ、そこで話が終わるわけではありません。
形式的な価格で譲るという選択があります。この場合、金額は目的になりません。目的は、事業と雇用が続くこと、そして個人保証から解放されることです。廃業を選べば、車両の処分、リースの清算、従業員への支払い、原状回復と、費用が出ていきます。譲渡なら、その負担が発生しません。
買い手の信用力で借り換えられれば、金利の負担が下がることもあります。事業としては回っているのに、借入の条件が重いために苦しんでいる会社では、この効果が大きくなります。
不動産を持っている場合は、資産の価値で見ると評価が残ることもあります。この場合、算定の方法によって結論が変わるので、両方で計算してみる意味があります。
「借入があるから売れない」ではなく、何を目的に譲るのかで判断が変わるということです。
個人保証は価格と切り離して交渉する
借入が引き継がれても、社長個人の保証は自動では外れません。この点は、価格の議論とは別に扱ってください。
混ざりやすいのは、価格の交渉に集中しているうちに、保証の話が後回しになることです。契約を結ぶ段階になって、保証がいつ外れるのか決まっていないという事態が起きます。
条件として、いつ誰がどう外すのかを明記してください。金融機関の判断が絡むため、譲渡と同時に自動で外れるとは限りません。外れなかった場合にどうするかまで詰めておくと、後で困りません。
リース契約に付いている個人保証も忘れないでください。借入の保証は把握していても、リースの保証は意識されていないことがあります。契約書の署名欄を確認すると分かります。
金融機関に話す時期
取引のある金融機関にいつ伝えるかは、判断の難しい項目です。
早すぎると、情報が広がる経路が増えます。金融機関の内部でも、複数の人が知ることになります。地域によっては、そこから話が漏れることもあり得ます。
遅すぎると、借入の継続や借り換えの調整が間に合いません。買い手の側にも金融機関との調整が必要で、そこに期間がかかります。
だから、時期は専門家と相談して決めてください。一般には、条件の大枠が固まり、相手が確からしくなった段階が目安になります。
なお、保証を外す協議は、譲渡の話とは別に、平時から始めておける性質のものです。財務の改善、公私の分離、決算の説明。これらを続けていることが、協議の土台になります。
整理は今日から始められる
この論点で挙げた準備は、譲渡の予定がなくても着手できます。
借入の一覧を作る。残高、金利、返済の期日、担保、保証人。一枚の表にまとめれば、資金繰りの計画にも使えます。
リースの一覧を作る。台数、残債、満了の時期、支配権が変わるときの扱い、個人保証の有無。
役員との貸し借りを確定させる。いつ、いくら、どちらの方向で動いたのか。
そして、使っていない資産を整理して借入の返済に充てる。純有利子負債が減れば、そのまま株式の価値が上がります。譲渡の場面だけでなく、日々の利息の負担も軽くなります。
差し引きの時点を確認する
純有利子負債は、いつの時点の数字を使うかで変わります。決算の日なのか、契約を結ぶ日なのか、実際に引き渡す日なのか。
この違いは、金額に直接効きます。返済が進めば借入は減りますし、季節によって手元の資金も動きます。運送業では、支払いと入金の時期がずれるため、月の中でも残高が大きく変動します。
実務では、直近の決算を基準にしたうえで、引き渡しの時点までの変動を精算するという形が取られることがあります。この場合、どこまでを精算の対象にするかを契約で明確にしておく必要があります。
準備としては、月末ごとの借入残高と現預金の推移を一年分そろえておいてください。どの時点を基準にするかを議論するとき、材料になります。
まとめ
株式価値は、事業価値から純有利子負債を引いた額です。運送業ではリース残債と役員借入の扱いが実務上の焦点になります。借入が多くても譲渡は可能で、その場合は金額より雇用の継続と個人保証からの解放が目的になります。