従業員の退職給付
規程があるのに引当がないケース
退職金規程を定めている以上、支払い義務があります。それが決算書に計上されていなければ、簿外の負債です。
買い手は、全従業員が現時点で退職した場合の要支給額を見積もり、その分を価格から差し引きます。勤続年数の長いドライバーが多い会社ほど、金額は大きくなります。
積立の有無で扱いが変わる
| 状態 | 買い手から見た扱い |
|---|---|
| 中退共などで積立済み | 資産と負債が対応。差額のみ調整 |
| 保険で積立(解約返戻金あり) | 返戻金を資産計上し、差額を調整 |
| 引当も積立もなし | 要支給額の全額が負債として扱われる |
| 規程そのものがない | 慣行として支給していないか要確認 |
注意すべきは最後の行です。規程がなくても、過去に支給した実績があれば、慣行として支払い義務が生じている可能性があります。過去の支給実績は必ず整理しておいてください。
把握しておくべきこと
- 退職金規程の有無と、その内容(計算式・支給要件)
- 全従業員が現時点で退職した場合の要支給額
- 中退共・特定退職金共済への加入状況と積立額
- 保険での積立と解約返戻金の額
- 過去5年程度の実際の支給実績
この一覧を自分から出せると、交渉が速く進みます。財務デューデリジェンスで指摘されやすい点もご覧ください。
役員退職金は別の話
従業員の退職給付が「差し引かれるもの」であるのに対し、役員退職金は売り手が受け取る形の一つです。ここは性質がまったく違います。
譲渡代金との配分
社長が会社から受け取る総額を、次の二つに配分することになります。
- 株式譲渡代金:株主である社長個人が受け取る
- 役員退職金:会社から社長に支給する
どちらで受け取るかによって、税負担が変わります。また、退職金は会社の損金になるため、会社側の税負担にも影響します。買い手にとっても関心のある論点です。
配分の設計は税務の専門領域です。必ず顧問税理士に試算してもらってください。額面の譲渡価格ではなく、手取りベースで条件を決めることが重要です。
※ 本記事は一般的な考え方を整理したものです。税務の取扱いは、法令の改正や個別の事情によって異なります。実際の判断にあたっては、必ず税理士等の専門家にご確認ください。
不相当に高額とされないように
役員退職金には、金額が過大と判断されると損金にできないという論点があります。在任年数や最終報酬額との関係で判断されるため、根拠を説明できる水準にしておく必要があります。ここも税理士との相談事項です。
支給のタイミング
クロージング前に支給するか、後にするか。株主総会の決議が必要であり、会社の資金繰りにも影響します。最終契約の段階で明確に決めておくべき項目です。
価格調整の実務
実際の交渉では、次のように整理されます。
- 従業員の退職給付の要支給額を確定する
- 積立資産(中退共・保険)を差し引き、純額を出す
- その純額を、株式価格から控除する
- 役員退職金は、譲渡代金との配分として別途設計する
売却前に手を打てること
- 要支給額を毎年把握する:規程に基づく試算を年1回作る
- 積立を始める:中退共などで計画的に積む。無くすことはできませんが、対応関係が明確になります
- 規程を整理する:曖昧な規程は、解釈次第で金額が膨らみます
- 過去の支給実績を記録する:慣行の有無をはっきりさせる
金額そのものを減らすことは基本的にできません。しかし、把握できていること自体が買い手の安心につながり、保守的な見積りによる過大な減額を防ぎます。
なぜ見落とされやすいのか
退職給付が準備の対象から漏れやすいのは、日常の経営で意識する場面がないからです。実際に誰かが退職して支払うときにだけ意識され、それ以外の期間は存在しないものとして扱われます。
ところが、買い手から見れば、これは確定した将来の支出です。しかも、勤続年数が長いほど金額が大きくなるので、ベテランが多い会社ほど負担が重くなります。運送業では、二十年三十年と勤めているドライバーがいる会社は珍しくありません。
もうひとつの理由は、規程を作った経緯が古いことです。何十年も前に整えたまま見返しておらず、社長自身が内容を覚えていないという会社もあります。計算式がどうなっているのか、どの範囲の従業員が対象なのか。改めて読むと、想定より広い対象になっていることがあります。
だから、準備の最初にやるべきは、規程を読み直すことです。読んで、今の従業員に当てはめて、いくらになるかを出す。この一回の作業で、実態が見えます。
要支給額の出し方
全従業員が現時点で退職した場合の額を出すという作業は、実際にやってみると難しくありません。
規程に計算式があるなら、それを一人ずつ当てはめるだけです。基本給に勤続年数ごとの係数を掛ける形が多いはずです。表計算に、従業員ごとの基本給と入社年月を入れれば、自動で出せます。
自己都合と会社都合で金額が違う規程もあります。その場合は、両方を出しておいてください。買い手は保守的に見るので、高いほうが基準になります。
この表は、年に一度更新する運用にしてください。決算のタイミングに合わせると忘れません。毎年更新していれば、承継の話が出たときにすぐ出せますし、金額の推移も見えます。
規程がない場合の確認
規程そのものがない会社では、逆に確認すべきことが増えます。過去に支給した実績があるかどうかです。
何人かに退職金を支払った履歴があると、それが慣行として扱われる可能性があります。規程がないから支払い義務がない、とは言い切れないということです。
確認の方法は、過去の支給の記録をたどることです。給与の台帳、源泉徴収の記録、退職時の書類。少なくとも五年分、できればそれ以上さかのぼって、支給の有無と金額を並べてください。
実績が出てきた場合、どういう基準で払ったのかも整理します。勤続年数に応じていたのか、その都度の判断だったのか。基準があるように見えるなら、それが慣行の内容になります。
この確認を怠ると、調査の段階で買い手側が見つけて、想定していなかった負担として扱われます。自分で先に出しておくほうが、はるかに有利です。
積立と負債の対応関係
積立があれば負担が消えるわけではありませんが、扱いが変わります。買い手から見て、資産と負債が対応しているかどうかが分かるからです。
共済の制度で積んでいる場合、その積立額が資産として見られ、要支給額との差額だけが調整の対象になります。保険で積んでいる場合は、解約したときに戻ってくる額が資産として扱われます。
だから、準備としては、それぞれの積立額を確認して要支給額と並べてください。差額がいくらかが分かれば、価格への影響も見当がつきます。
これから積み始める場合、すぐに追いつくことはありません。ただ、積み始めていること自体は評価されます。把握して手を打っている会社と、放置している会社では、心証がまったく違います。
また、保険で積んでいる場合は、契約者と受取人が誰になっているかも確認してください。会社が契約者で会社が受取人なら会社の資産ですが、経営者個人が絡んでいると、公私の分離の論点にもなります。
規程が曖昧だと金額が膨らむ
準備の項目に「曖昧な規程を整理する」と挙げましたが、なぜ曖昧だと不利になるのかを補足します。
解釈の幅がある規程は、買い手が広いほうに読むからです。対象となる従業員の範囲、退職の事由による差、基準となる給与の定義。どれも書き方によって金額が変わります。
たとえば、基準になる給与が「基本給」と書かれているのか「賃金」と書かれているのかで、手当を含むかどうかが変わります。運送業では手当の比重が大きいので、この違いは金額に直結します。
規程を見直す場合は、社会保険労務士に相談してください。既に在籍している従業員の条件を不利に変えることには制約があるので、自己判断で書き換えるのは危険です。曖昧な部分を明確にするという方向で、専門家と組み立てます。
役員退職金は受け取る側の話
従業員の退職給付が差し引かれるものであるのに対し、役員退職金は経営者が受け取る形のひとつです。混同されやすいので、性質の違いを押さえておいてください。
会社を譲るとき、経営者が受け取る総額は、株式の対価と役員退職金の二つに分かれます。どちらの形で受け取るかによって、税の扱いが変わります。
そして、退職金は会社の費用になるため、会社側の税負担にも影響します。買い手にとっても関心のある論点だということです。会社の資金が減るということは、株式の価値がその分下がるという計算になるからです。
つまり、代金と退職金の配分は、こちらの都合だけで決められません。買い手との交渉の対象になります。
支給の資金をどう手当てするか
役員退職金を設計するとき、見落とされやすいのが資金です。会社に支払う原資があるかどうか。
手元の資金が薄い会社では、そもそも支払えないという問題が出ます。譲渡の実行と同時に支払う設計にする場合、資金の流れを事前に詰めておく必要があります。買い手が資金を入れてから支払うのか、既存の資金で払うのか。
保険を解約して充てるという方法もあります。ただし、解約の時期によって返戻金の額が変わりますし、税の扱いも絡みます。
支給の時期をいつにするかも、決めておくべき項目です。株主総会の決議が必要ですし、会社の資金繰りにも影響します。最終の契約を結ぶ段階で明確にしておいてください。
準備の順序
この論点で最初にやるべきは、規程の確認と要支給額の試算です。ここが出ないと、他の検討が始まりません。
次に、積立の状況を確認します。共済も保険も含めて、いくら積んであるのか。要支給額と並べて、差額を出します。
そして、過去の支給実績の整理。規程があってもなくても、この確認は必要です。
役員退職金の設計は、その後です。会社の資金の状況と、想定される譲渡の価格が見えてから、税理士に試算を依頼します。この試算は、条件の交渉に入る前に手元にあるべきものです。契約を結んだ後では、設計を変えられません。
把握していることが防御になる
金額そのものを減らすことは基本的にできない、と書きました。それでも準備する意味があるのは、把握しているかどうかで扱われ方が変わるからです。
買い手が調査で確認したときに、こちらから要支給額と積立額の一覧が出てくれば、その数字が議論の土台になります。金額は差し引かれますが、それ以上のことは起きません。
逆に、何も出てこなければ、買い手が自分で見積もることになります。情報が足りない状態での見積もりは、必ず保守的、つまり大きめになります。実際より多く差し引かれるということです。
さらに、退職給付を把握していない会社は、他の項目も把握していないのではないかと見られます。労務の記録、車両の状態、契約の内容。ひとつの不備が、全体の心証に響きます。
だから、この論点で目指すのは金額を減らすことではなく、金額を確定させることです。確定した負担は条件として調整できますが、確定しない負担は案件そのものを止める理由になります。
従業員に伝わらないように進める
退職給付の試算をすると、社内に何をしているのかと聞かれることがあります。承継の準備だと説明すると、そこから話が広がります。
使いやすいのは、規程の見直しとして説明することです。実際、規程が古いまま放置されているなら、見直すこと自体に意味があります。制度が現状に合っているか確認している、という説明なら不自然ではありません。
試算の作業自体は、経理の担当者と社会保険労務士がいれば進められます。関わる人数を絞れば、情報が広がる経路も減ります。
ただし、規程を実際に変更する場合は、従業員への説明が必要になります。この場合は、承継の話とは切り離して、制度の見直しとして進めてください。時期をずらすのも一つの方法です。
まとめ
従業員の退職給付は、引当がなくても実質的な負債として価格から差し引かれます。積立との対応関係を明確にし、要支給額を把握しておくことが防御になります。役員退職金は性質が異なり、譲渡代金との配分設計が手取り額を左右します。税理士との事前相談が不可欠です。