交渉の対象になるもの

M&Aで話し合われるのは価格だけではありません。

  • 譲渡価格と支払方法(一括か分割か、後払い部分があるか)
  • 従業員の雇用継続と労働条件
  • 役員退職金の額と支給時期
  • 個人保証の解除時期
  • 前経営者の引き継ぎ期間・立場・報酬
  • 社名・屋号の扱い
  • 社長個人所有の不動産をどうするか
  • 表明保証の範囲・上限・期間
  • 競業避止の期間と範囲
  • 公表のタイミング

これだけの項目があるため、価格だけ見て良し悪しを判断するのは危険です。

優先順位の決め方

交渉に入る前に、すべての項目を三つに分けてください。

A:絶対に譲れない(これが崩れるなら成立させない)

典型的には次のようなものです。

  • 従業員の雇用継続(人数・拠点)
  • 個人保証を確実に外すこと
  • 最低限必要な手取り額

3つ以内に絞るのがコツです。多すぎると、実質的に「全部譲れない」と同じになり、交渉が成り立ちません。

B:できれば通したい(交換材料になる)

  • 社名の維持
  • 引き継ぎ期間の長さ
  • 特定の幹部の処遇
  • 支払いの一括・分割

C:相手に譲ってよい

  • 公表のタイミング
  • 細かい手続きの進め方
  • 価格の端数

Cを気前よく譲ることで、Aを通しやすくなります。すべてに抵抗する交渉は、結局すべてで妥協することになりがちです。

売り手が特に守るべき三つ

1. 個人保証の解除

これは金額の問題ではなく、引退後の生活の安全に直結します。会社を手放したのに保証だけ残る、という状態は絶対に避けてください。

「クロージング後◯か月以内に買い手が金融機関と協議し解除に努める」という条項では、努力義務にとどまる可能性があります。いつまでに、外れなかったらどうするかまで詰めてください。経営者保証は外せるかで詳しく整理しています。

2. 従業員の雇用

「雇用を維持する」という約束は、期間と範囲を明確にしないと意味を持ちません。労働条件の水準、拠点の統廃合の有無まで含めて話してください。従業員の雇用と処遇はどうなるかもご覧ください。

3. 手取りベースでの金額

譲渡価格の額面ではなく、税引後にいくら残るかで考えてください。株式譲渡代金と役員退職金の配分によって、手取りは変わります。税理士に試算してもらったうえで、必要額を決めてください。

※ 本記事は一般的な考え方を整理したものです。税務の取扱いは、法令の改正や個別の事情によって異なります。実際の判断にあたっては、必ず税理士等の専門家にご確認ください。

伝え方が結果を変える

悪い伝え方:「価格は下げられません」
良い伝え方:「従業員の退職金と、私の引退後の生活を考えると、手取りで◯◯は必要です。そのためには価格が◯◯以上になります」

理由を添えると、相手は代替案を出せます。「価格は据え置いて、支払い方法を変える」「退職金の配分を変える」といった着地が生まれます。結論だけ突きつける交渉は、行き止まりになりやすいのです。

相手にも譲れない点がある

買い手側にも、次のような線があります。

  • 投資回収の見込みが立つ価格の上限
  • 簿外債務のリスクを負わないこと(表明保証)
  • キーパーソンが一定期間残ること
  • 主要荷主との関係が続くこと

相手の線を理解すると、どこなら動かせるかが見えてきます。仲介・アドバイザーに、買い手が何を最も気にしているかを確認してください。

折り合わないときの判断

Aの項目が通らないなら、その相手とは成立させない。これが原則です。無理に成立させても、後で問題が起きます。

ただし、Aの設定が現実的だったかは振り返る価値があります。市場の相場から大きく外れた価格を「絶対に譲れない」に置いていれば、どの相手とも成立しません。相場はいくらかで水準感を確認してください。

交渉を止めないために

  • 回答を保留しすぎない(1週間以上放置すると相手の熱が冷めます)
  • 後から条件を追加しない(信頼を大きく損ないます)
  • 感情的な論点(社名、創業の思い)は早い段階で伝える

M&Aが途中で止まる理由で挙げた典型例の多くは、交渉の進め方に起因します。

優先順位を紙に書く

頭の中で「これは譲れない」と思っているだけでは、交渉の場で揺れます。相手が理由を並べて説得してくると、その場では納得してしまうものです。後から「なぜ受けてしまったのか」と悔やむのは、この構造によります。

防ぐ方法は単純で、紙に書き出すことです。絶対に譲れないもの、できれば通したいもの、譲ってよいもの。三つに分けて書き、交渉の場に持っていってください。書いてあるものを見れば、その場の流れに引きずられません。

書き出す作業は、一人でやらないほうがよい場合もあります。配偶者や後継者、共同経営者がいるなら、一緒に決めてください。途中で身内の反対が出て条件が覆るのは、実際によくあることです。

個人保証をなぜ最優先にするのか

三つの守るべき点のうち、個人保証は性質が違います。従業員の雇用も手取り額も、譲渡の時点で結果が決まりますが、個人保証は譲渡後も残り続けるからです。

保証が外れていなければ、会社を離れた後も、その会社の借入について責任を負い続けます。新しい経営者の判断で借入が増えることもあり、自分では何も制御できません。にもかかわらず、責任だけが残ります。

最終契約で「クロージング後◯か月以内に買い手が解除に協力する」と定めるのが一般的ですが、協力の約束と実際に外れることは別です。金融機関が判断することだからです。確実に外すには、交渉の早い段階から金融機関を巻き込んでおくことです。

解除の見通しが立たない相手であれば、それ自体が条件の一部として交渉の対象になります。「保証が外れないなら、その分は価格に反映してほしい」という主張も成り立ちます。

手取りで考える理由

提示された金額がそのまま手元に残るわけではありません。仲介やアドバイザーへの報酬、専門家への費用、そして税。差し引いた後の金額が、実際に受け取る額です。

さらに、受け取り方によっても変わります。すべてを譲渡代金として受け取るのか、一部を役員退職金として受け取るのか。どちらが有利かは会社の状況によって異なります。

この試算は、条件を詰める前に済ませてください。金額が固まってから「思っていた額と違う」と気づいても、そこから条件を戻すのは困難です。顧問税理士に依頼する費用は、この試算だけでも十分に見合います。

伝える順番と時期

譲れない条件は、早い段階で伝えてください。トップ面談の場が適しています。後から出すほど、「話が違う」という反応を招きます。

とくに、感情に関わる条件——社名を残したい、創業の経緯を大切にしてほしい、特定の従業員を守りたい——は、最初に伝えたほうが伝わります。条件交渉の終盤で持ち出すと、交渉の材料に見えてしまいます。

伝え方も結果を変えます。「絶対に譲れない」と一方的に言うより、なぜそれが大切なのかを説明したほうが、相手も対応を考えられます。理由が分かれば、別の形で希望を満たす案が出てくることもあります。

相手の事情を聞いておく

交渉は、こちらの希望を通す場であると同時に、相手の制約を知る場でもあります。買い手にも譲れない点があります。

投資として回収できる金額の上限、社内の承認を得られる条件の範囲、簿外債務を負わないという方針、キーパーソンに残ってほしいという要望。これらを知っていれば、どこで交換できるかが見えます。

面談の場で「御社として、これだけは譲れないという点はありますか」と聞いてみてください。答えてくれる相手であれば、その後の交渉はかなり進めやすくなります。

交渉が膠着したとき

条件が折り合わず、話が止まることがあります。このとき、押し切ろうとするより、一度整理し直すほうが結果はよくなります。

確認すべきは、対立している論点が本当に譲れないものなのか、という点です。書き出した優先順位に照らして、それがAなのかBなのか。Bであれば、他の条件との交換を提案できます。Aであれば、成立させないという判断もあり得ます。

また、対立の原因が誤解であることもあります。買い手が懸念しているのは金額ではなく、その裏にあるリスクだった。こうした場合、説明の仕方を変えるだけで動くことがあります。間に立つ人を通じて、相手の真意を確かめてください。

成立させないという判断

Aの条件が守れないのであれば、成立させないという選択が正しい場面もあります。無理に進めて、従業員が守られなかった、個人保証が残った、手取りが想定を大きく下回った。こうなれば、何のための譲渡だったのか分かりません。

断ることで失うのは、その相手との話だけです。準備した資料も、整理した数字も、把握した課題も残ります。次の候補への打診は、最初より早く動けます。

交渉に入る前に、「この条件が守れなければ降りる」という線を決めておいてください。線があれば、迷わずに判断できます。

交渉の窓口を一本にする

売り手側の窓口が複数あると、条件がぶれます。社長が言ったことと、後継者が言ったことが違う。こうなると、買い手はどちらを信じてよいか分かりません。

窓口は社長に一本化し、社内で意見が分かれる場合は先に調整してください。共同経営者や親族の株主がいる場合はなおさらです。全員の合意を取ってから条件を出すほうが、後から覆るより安全です。

間に立つ仲介やアドバイザーも、窓口を明確にしておきます。誰に連絡すればよいのか、いつなら連絡がつくのか。これが曖昧だと、判断のたびに時間が失われます。

回答の速さも条件のうち

条件を提示されてから回答するまでの期間は、短いほうが交渉は有利に進みます。相手は複数の案件を検討しており、返答が遅れれば優先度が下がるためです。

とはいえ、その場で即答する必要はありません。持ち帰って検討し、数日で回答する。この程度の速さが保てれば十分です。一週間以上放置すると、熱が冷めます。

回答が遅れそうな事情があるなら、その旨を伝えてください。「税理士の試算を待っているので、来週まで時間をいただきたい」と伝えるだけで、相手は待てます。連絡が途絶えるのが最も悪い状態です。

後から条件を足さない

交渉の終盤で新しい条件を持ち出すことは、最も信頼を損なう行為です。買い手から見れば、合意したはずの前提が動くことになり、社内の承認を取り直す必要が生じます。

とくに多いのが、家族や共同経営者から後になって要望が出るケースです。「妻が個人所有の土地の扱いを気にしている」「息子が屋号を残してほしいと言っている」。いずれも、最初に確認しておけば避けられます。

条件を出し切るタイミングは、基本合意の前です。ここまでに、身内も含めて意見を集約しておいてください。それ以降に出てくる要望は、交渉の材料としてではなく、話を止める要因として働きます。

感情の論点を軽視しない

金額や条項と違って、社名や創業の思いといった論点は数字になりません。だからといって軽いわけではなく、むしろ最後まで残るのはこちらであることが多いものです。

数十年かけて築いた会社を手放すのですから、感情が動くのは当然です。それを抑え込んで金額だけで判断すると、後から納得できなくなります。逆に、感情の論点を早い段階で相手に伝えておけば、対応してもらえる余地があります。

間に立つ人にも、率直に伝えてください。「金額よりも従業員のことが気になっている」と分かっていれば、交渉の組み立て方が変わります。

交渉の場では、押すべきところと引くべきところがあります。書き出した優先順位は、その判断を助けるためのものです。全部を押せば話は止まり、全部を引けば後悔が残ります。

交渉を始める前に確かめること

条件交渉に入る前に、次の三つを確かめておいてください。どれも、交渉が始まってからでは確かめにくくなります。

一つ目は、手取りの試算です。提示される金額から、費用と税を差し引いた後にいくら残るのか。この数字がなければ、条件が良いのか悪いのかを判断できません。

二つ目は、個人保証の解除の見通しです。金融機関がどう考えているのか、外れる可能性はどの程度あるのか。交渉の材料として使うにも、まず現状を知る必要があります。

三つ目は、家族や共同経営者の意向です。後から要望が出れば、条件を覆すことになります。出し切ってから交渉に入ってください。

まとめ

譲れない点は3つ以内に絞り、それ以外は交換材料にする。特に個人保証・雇用・手取り額は先に決めておく。理由を添えて伝えれば、相手は代替案を出せます。準備した交渉と、その場で考える交渉では、結果がはっきり変わります。