なぜ渡せないのか
渡せない理由を分解すると、次のようになります。
- 判断の基準が言葉になっていない:社長の頭の中にあるため、教えられない
- 情報が渡っていない:数字を見せていないので、判断できない
- 権限の範囲が曖昧:どこまで決めてよいか分からない
- 失敗を許さない:一度の失敗で取り上げてしまう
- 社長のほうが速い:自分でやったほうが早いので、つい介入する
5番目が最も根深い原因です。短期的には社長がやったほうが正確で速いのは事実です。しかしそれを続ける限り、渡せません。
渡す順序
いきなり全部を渡すのは無理です。段階を設けてください。
段階1:情報を渡す
判断の前に、材料が必要です。次を共有してください。
- 月次の数字(売上、粗利、台数、トン数)
- 相場の水準
- 在庫の状況
- 主要取引先の状況
数字を見せていない相手に判断を求めるのは無理です。ここを飛ばして「もっと考えろ」と言っても進みません。
段階2:判断の基準を渡す
社長が何を見て決めているかを言葉にします。
- 仕入価格の算式
- 取る部品の基準
- 値付けの基準
- 断る案件の基準
作るのに時間がかかりますが、これがないと渡しても判断が振れます。
段階3:範囲を限定して任せる
金額や内容で線を引いて渡します。
- 一定金額までの仕入は自分の判断でよい
- 既存取引先への対応は任せる
- 新規取引と大口案件は相談する
線を明示することが重要です。「常識的に判断して」では、本人が不安で確認してきます。
段階4:範囲を広げる
結果を見ながら、任せる範囲を広げていきます。
段階5:人の配置と評価を渡す
最後に渡すのがここです。人事に関わる判断は、最も難しく、最も重要です。
失敗の扱いが分かれ目
ここで多くの会社が失敗します。
任せれば、必ず失敗が起きます。社長ならしなかった判断をします。そのとき、どう扱うかで結果が変わります。
やってはいけないこと
- その場で取り上げる(「やっぱり自分がやる」)
- 人前で責める
- 結果だけを見て判断する
やるべきこと
- なぜその判断をしたのかを聞く
- 判断の過程に問題があったのか、情報が足りなかったのかを分ける
- 情報が足りなかったなら、渡す情報を増やす
- 基準が曖昧だったなら、基準を明確にする
- 同じ範囲で続けさせる
2番目が肝心です。結果が悪くても、判断の過程が正しければ問題ありません。相場が急に動いた、想定外のことが起きた。そういう失敗は誰にでもあります。
逆に、基準を無視した、確認すべきことを確認しなかった。これは過程の問題です。ここを区別してください。
そして、失敗のコストを織り込んでください。任せることには授業料がかかります。それを払う覚悟がなければ、渡せません。
社長が我慢する
実務で最も難しいのがこれです。
任せた案件で、社長には結果が見えています。「そのやり方では駄目だ」と分かる。しかし口を出せば、本人は次から自分で考えなくなります。
工夫を挙げます。
- 取引先に社長が出ない:物理的に距離を取る
- 報告のタイミングを決める:都度ではなく、週次でまとめて
- 質問で返す:「どうすればいいか」と聞かれたら「どう思うか」と返す
- 致命的でなければ通す:金額の線を決めておく
1番目が効きます。社長が同席していると、相手は社長に話しかけます。本人が窓口として認識されません。
本人の意向を確認する
忘れられがちな点です。本人が責任を負いたいと思っているかを確認してください。
現場の技能が高い人が、必ずしも管理を望むとは限りません。
- 責任を持つことに関心があるか
- 人を見る仕事に向いていると感じるか
- 処遇はどうあるべきと考えるか
- 不安に思っていることは何か
そして処遇を明示してください。責任だけ増えて報酬が変わらなければ、続きません。
承継との関係
この取り組みは、承継の準備そのものです。
買い手が最も不安に思うのは「社長がいなくなったら回るのか」です。判断を任せられる人がいれば、その不安が大きく減ります。
そして、その人が承継の相手になる可能性もあります。従業員承継を検討するなら、まず判断を渡せる人を育てることが前提です。
逆に第三者へ譲る場合も、その人が残って現場を回してくれるなら、買い手にとって大きな安心材料になります。
数年かかる仕事です。引退の直前に始めても間に合いません。60代のうちに、段階1(情報を渡す)から着手してください。
複数人を育てる
1人だけを育てると、新たな属人化が生まれます。その人が辞めれば、また社長に戻ります。
可能であれば、2人以上に並行して渡してください。
- 工程を分けて、それぞれに任せる(現場と営業、など)
- 互いに代替できる範囲を作る
- 2人で相談して決める場を設ける
3番目が有効です。社長に聞く前に2人で相談するという習慣ができれば、判断の質が上がり、社長への確認が減ります。
規模が小さく1人しか候補がいない場合は、その人が抜けたときの想定をしておいてください。基準と記録が文書になっていれば、次の人に渡せます。人ではなく仕組みに残すことが本質です。
※ 権限委譲の進め方は組織の規模と人員構成によって異なります。処遇の変更は労働条件の変更を伴うため、適切な手続きを行ってください。